東大紛争の舞台「安田講堂」

東大紛争の期間中に構内の建物を占拠した全共闘の学生ですが、全共闘の特徴は中国の文化大革命に影響を受けたと思われるような「暴力の賛美」です。、丸山眞男をはじめとした長老たちは全共闘の学生から激しく糾弾され、「。東大教授という立場に寄りかかった権威主義者!」「大衆から離れた貴族主義者!」といった批判がされました。占拠した学生達によって、教授室などが滅茶苦茶に破壊されました。丸山は明治以来の貴重な資料や原書フィルムを壊した全共闘の学生たちに対して「ファシストでもやらなかったことを、やるのか」と発言しています。貴重な資料はストーブ代わりとして燃やされるという暴挙などが行われただけではなく、理学部二号館を占拠した学生は、昭和43年(1968年)12月24日に起きた乱闘の際、地質鉱物学科の鉱石標本や化石標本などを武器として使い紛失させています。この事件の影響で、この年の東京大学の入学試験は中止されたため、次年度の入学者は0人となりました。

安田講堂の封鎖解除

学園の平常化を求めるノンポリ系の学生たちとは交渉することでスト収拾を行うことに成功しましたが、安田講堂をかわらず占拠している全共闘の学生との意見の一致はムリと判断した大学側は、機動隊の導入を決め大学構内のバリケード撤去を警視庁に要請します。警察側の記録では1月18日から19日にかけての封鎖解除で検挙された633人の学生のうち、東大生は38人だったとしていますが、全共闘側の関係者からの異論と公判で起訴された54名の東大関係者と、全体の逮捕者と起訴された人の比率からみると、当時東大構内に立て籠もった東大関係者は80人から100名程度だと推測されます。

封鎖解除に動いた警察側

  • 秦野章(最高警備本部長)・・・私大出身者としては初の警視総監に昭和42年(1967年)就任しています。警視庁トップとして指揮をとりました。昭和49年(1974年)から政界入りして昭和61年(1986年)に政界を引退しました。政治家として法務大臣に就任しています。
  • 後藤田正晴(警察庁次長)・・・学生運動が過激化した頃には極左過激派のテロが頻発していたため、警備などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て対処に追われた時代です。第6代警察庁長官などを務め、政界へ出馬して衆議院議員を7期務めています。そのうち内閣官房長官のほか、大臣や副総理などを歴任しました。
  • 下稲葉耕吉(現場指揮担当)・・・封鎖解除の際には、最高警備本部幕僚長兼総合警備本部長として現場指揮にあたりました。第73代警視総監となり、昭和41年(1966年)に政界入りをしていて、法務大臣にも就任しました。
  • 佐々淳行(現場指揮担当)・・・封鎖解除の際に、 総合警備本部幕僚長として現場にあたりました。「あさま山荘事件」の警備のときには、総括・警備実施・広報担当の幕僚長を務めます。のち初代内閣安全保障室長に就いています。
  • 石川三郎(第一機動隊長)・・・「あさま山荘事件」の警備の際には、統括指揮を担当しました。佐々淳行にスカウトされるかたちで警備部警備第1課長代理になり、最終的には巡査から警視監まで登りつめました。
  • 宇田川信一(現場情報担当)・・・ 「あさま山荘事件」警備の際には、コンバット・チームを指揮しました。
  • 小林茂之(機動隊連絡担当官)・・・「あさま山荘事件」警備の際は、特科車輌隊長を担当しました。
  • 楢島文穂(現場指揮担当)・・・ 現場警備本部長。
  • 細井為行(中隊長)・・・ 第五機動隊中隊長つまり警部として安田講堂事件に参加しました。1969年中央大学法学部研究室へ移り、司法修習となって海外への留学をへて国際弁護士として活動しています。

封鎖解除1日目:1月18日

1月18日の午前7時ごろ、警視庁警備部は8つの機動隊を動員します。そして医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始しました。もちろんバリケード撤去には、全共闘学生からの投石や火炎瓶などによる抵抗を受けながらのバリケード撤去です。医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除して、安田講堂を包囲します。そして午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始されました。

ところが強固なバリケードだけではなく、上の階からの火炎瓶が投げられたり、ホームベース大もある敷石が投石されたりといっただけではなく、ガソリンや硫酸といった劇物も散布されたため、予想以上の抵抗でした。警察側の指揮官だった佐々淳行は記していますが、「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ということが念頭に置かれての封鎖解除だったため、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は、とても苦戦を強いられたともかかれています。警察の上層部のほうでも、安田講堂は文化遺産という認識があるため、安田講堂の壁を破壊するといった強靭な手段などもとられることはありませんでした。

ケガさせずにを念頭においての封鎖解除でしたが、機動隊側は催涙弾を装填したガス銃を学生に向けて発射しているため、学生側には負傷者が複数発生しました。このときのことを学生側の本郷学生隊長だった島泰三さんは、警察側の攻撃計画が実にずさんで、「建物を攻略する城攻めには驚くほど無知」だったと評しています。

午後5時40分に警備本部は撤去作業の中止を命令して。18日の作業は終了しました。

この日の午後、お茶の水付近の神田地区では「全都学生総決起集会」が呼応する形で開かれました。そこでもデモ隊が組織されているため、街頭で機動隊と衝突しています。ここのデモ隊は東大を目指しましたが、本郷三丁目駅付近まで到達したのが限界だったようで午後9時には解散しています。

封鎖解除2日目:1月19日

翌日の午前6時30分に機動隊の封鎖解除が再開されました。1日と同じく2日目も全共闘学生の激しい抵抗がありましたが、午後3時50分に突入した隊員が三階大講堂を制圧します。そして午後5時46分に屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙しました。

こうして東大安田講堂封鎖解除は完了して機動隊は撤収となりました。この2日間の機動隊による撤去作業では、全共闘学生による投石や劇薬の散布などがあったため、多数の警察官が重軽傷を負っています。

紛争で荒廃した安田講堂

東大紛争によって安田講堂は荒廃してしまいました。そのため安田大講堂は20年間渡って、法学部や文学部の物置として使われていました。1988(昭和63年)から平成6年(1994年)にかけて改修工事が行われました。そして1991年から卒業式や学位記授与式が再び安田講堂で行われるようになりました。

改修工事を経て杮落としとして行われたのが現代の宇宙量に大きな影響を与えている理論物理学者のスティーヴン・ホーキングの来日公演が2001年です。安田講堂の前には中庭が造られていて、地下には食堂があります。かつてのように集会を開いて練り歩くことが出来ないような場所になりました。

2011年の東日本大震災を受けて、ガラスやタイルの一部が落下するといった被害が一部で見られました。安田講堂が完成してから約90年が経過しているため、建物そのものも老朽化が進んでいることもあり、耐震改修を実施することになりました。そのため安田講堂改修寄付事業として、10万円以上の寄付で安田講堂の椅子に名前が刻印されたプレートが付けられる寄付が募られています。