裁判官から転進して政治家へ・・・

民主党所属の国会議員で、弁護士資格を持つ代議士として広く知られているのが江田五月さんではないでしょうか。司法修習第20期ですが、このときに弁護士・裁判官・検察官のいずれかを選ぶ時に選んだのは裁判官の道でした。松野信夫さんとは共通点もおおくあり、「共謀罪に反対する超党派国会議員と市民の緊急院内集会」や憲法改正に反対する超党派議員連盟立憲フォーラムなど議員連盟など同じです。「死刑」についても江田さんなりに考えがあるようです。

裁判官から代議士

江田五月さんの父親は江田三郎さんです。江田三郎さんの長男として岡山で生まれていますが、父親の江田三郎さんは革新系政治家の中でも、ずば抜けて国民的な人気を誇っていた政治家です。あの田中角栄元首相でさえ、江田三郎さんがあまりの人気の高さに社会党の委員長に就任することを恐れたいたというどです。左翼政党系の政治家でありながらも、スターニズムに否定的な考えを持っていて北朝鮮の金日成主席に対しては「個人崇拝と天皇制の悪いき部分を足したものだ」と激しい嫌悪感を持っていたようです。そんな父親をもつ江田五月さんはどのような方なのでしょうか~?!

江田五月

昭和16年(1941年)5月22日に岡山県で生まれて、岡山市立弘西小学校、岡山市立旭中学校、岡山県立岡山朝日高等学校を卒業した後東京大学に入学しています。東京大学の教養学部自治会委員長時代には、大学管理制度改革に反発したため、全学ストを決行しました。ちなみにこのストを指揮したことから、責任を取る形で退学処分が下りました。そして翌年東京大学に復学しますが、そのときには学生運動からの絶縁を宣言しての復学となりました。復学した学部は法学部です。法学部では法律の勉強よりも、断然面白い勉強は政治学だったそうですが、法律は大学を卒業したら絶対に学ばない分野だと思ってあえて法律を選んだそうです。

法律を学ぶ中で一番魅力を感じたのは行政法です。行政法は国家機関の行為法でもあり、行政法の分野で「憲法は変わる。されど行政法は変わらず。」という格言があるように、行政法に魅力を感じた江田五月さんは、学者への道に入ることも考えたそうです。東大法学部では学部の卒業生から直接助手を採用します。行政法での助手という道を考えながらも、助手になったらドイツ語を勉強する必要があることも、少しネックだったようです。復学してからの2年間は、法学と政治学を徹底的に勉強しようと思って勉強した結果が司法試験の席次として現れたと思いますが、自身は良い成績を目指すために学んだわけではないと語っています。法律を学ぼうと決めた時に、何か目標を決めて学ぶほうが勉強の励みとなると思っての司法試験でした。

東大卒業後に、司法研修所へ入所していますが司法修習第20期の同期には、民主党の横路孝弘さん、自民党の高村正彦さん、公明党の神崎武法さん、DNA鑑定の証拠能力の研究に取り組んだ学者の村井敏邦さんがいます。

司法修習を経て選んだのは裁判官の道でしたが、検察官になることはまったっく考えなかったそうで当初の希望通り弁護士になるか、または裁判官になるのか。そして父親が政治家(おまけに人気の高い)ということもあって政治活動については、この時代はできるだけ政治とは遠ざかっていたいと考えていたそうです。この時期は政治からは距離をおいて、蓄積を多くするのが大事な時期ではないかという思いから政治からは距離を置いていたいと考えていたそうです。

弁護士になれば、自由法曹団などから入会の進めがあり入会すれば、社会党の活動をして将来は父親の後を継いで政治家への道しかなくなる。みんなが予想するようなコースではなく、そして父親の影響力が及ばない場所で自分自身を試してみたいと考え、結果が裁判官への道でした。

東京地裁へ勤務となってその夏休みにオックスフォードの大学院へ留学することになり、そこで修士課程を修了しています。帰国してから、千葉や横浜などの各地方裁判所で判事補として勤めていました。官舎へ暮らし、このまま裁判官の道を邁進しようと気持ちが固まっていました。

国会議員へ

昭和52年(1977年)5月22日に、父親の江田三郎が急逝しましましたが、この日は江田五月自身の36回目の誕生日だったこともあり、選挙準備をしていた父が自分の誕生日に亡くなったことで、考えさせられたようです。父親の江田三郎は2ヶ月前の3月に日本社会党を離党していて、社会市民連合を、菅直人や安東仁兵衛たちを誘い結党したばかりのことでした。そして三郎自身はこの時期落選中だったこともあって第11回参議院議員通常選挙に出馬する腹積もりでそのための準備をしていましたが、公示日直前での急逝となりました。父親の死を受けて五月が選挙に出馬することになり、社会市民連合公認で全国区から出馬して参院議員に初当選しました。そして江田五月の公設秘書になったのは、石井紘基です。石井紘基は中央大学の時に安保闘争に参加していて、国会へ突入するデモ隊の先頭にいたときに、国会は騒然となり全ての国会議員が逃げ出す中で、騒乱の最前線のなかで、警察官を抑えようとしている当時日本社会党書記長の江田三郎の姿を見て『初めて国民の立場にたった政治家をみた』と思い、後に江田の後を追うように、社会党の活動に参加するようになりました。石井も社会民主連合の結成に参加していて、江田五月の公設秘書となりました。

社会民主連合の時

昭和53年(1978年)に社会民主連合(社民連)を結党します。この社会民主連合には、社会党を離党して社会クラブを結成していたニュースキャスターの先駆けとも言われる田英夫、ロッキード事件やリクルート問題など数々の疑惑を暴き「国会の爆弾男」ともいわれた楢崎弥之助、ニュースキャスターだった秦豊たちも加わりました。社民連の代表に就任したのは田英夫が就任して、江田五月は副代表に就任しました。

参議院議員として昭和58年(1983年)7月まで1期目を勤めましたが、第13回参議院議員通常選挙には出馬はしないで昭和58年(1983年)12月に行われた第37回衆議院議員総選挙に旧岡山県第1区から社民連公認で出馬して、参議院から衆議院へ鞍替えしました。昭和60年(1985年)に社会民主連合の代表に就任しました。そして代表を務めた社民連で自由民主党一党の保守政権に代わる野党連合政権の樹立を志向して、社民連を結節点にした社会・民社3党での「ブリッジ会派」構想であったり、そこに公明党を加えた「社公民連合政権」構想を唱えましたが、昭和61年(1986年)の衆参同日選挙で自民党が圧勝となる304議席を獲得したため、連合政権構想は遂に陽の目を見ないままに終わりました。

平成4年(1992年)に自民党内で「改革フォーラム21」が羽田孜や小沢一郎といった中心となり結成されたほか、大前研一の「平成維新の会」、細川護煕の「日本新党」が相次いで誕生します。そして江田五月のほうはいうと、「政策集団シリウス」を結成して、社会党右派も巻き込んだ改革派勢力の結集を図ります。社会党の中でも若手改革派が台頭する兆しが見えていました。

平成5年(1993年)第40回衆議院議員総選挙で、自民党を離党した羽田孜・小沢一郎たちの「新生党」、「新党さきがけ」の武村正義・田中秀征・鳩山由紀夫、「日本新党」の細川護煕・小池百合子といった既成政党ではない、新党が多く区躍進した選挙となりこれらの「新党」が大きく議席数を伸ばしたことで「新党ブーム」が巻き起こりました。「新党ブーム」の結果、自民党の議席は過半数を割り込んで宮澤喜一首相は退陣に追い込まれることになりました。そして宮澤内閣が退陣したことで、非自民・非共産8党派による細川内閣が誕生して細川内閣で、江田五月は科学技術庁長官に就任しました。