民主党議員となった江田五月

平成6年(1994年)に社会民主連合が解党されて、江田五月さんと山形が選挙区の阿部昭吾さんは「日本新党」に入党して、江田五月さんは日本新党の副代表に就任しますが、4月に細川首相がわずか8ヶ月で辞意を表明して、細川内閣につづいて羽田内閣も社会党の連立の離脱によって少数与党に転落したため、6月にわずか64日で退陣に追い込まれました。同年の平成6年末の「新進党」結党に参加することになりました。

岡山県知事選挙へ出馬するため、平成6年(1996年)に衆議院議員を辞職して新進党を離党します。岡山知事選では同じ岡山選出の加藤六月元農林水産大臣や、新進党を支持する創価学会からも支援を受けたましたが、江田五月さんの東大の後輩にあたる自民党推薦の元建設官僚・石井正弘さんに敗れることになりました。このときは接戦となり、石井さんは441.696票で得票率が47.6パーセント、江田さんは435.984票で得票率が47.0パーセントでの敗北となりました。知事選挙後は新進党に復党することはなく、弁護士を経て民主党へ入党しました。

民主党時代

知事選で敗北して、民主党へ入党した江田さんは2年後に行われた第18回参議院議員通常選挙に岡山県選挙区から民主党公認で出馬します。そして2年ぶりとなる国政への復帰となる当選となりました。平成15年(2003年)に衆議院東京都第6区補欠選挙が行われましたが、この補欠選挙は江田さんが初めて参議院議員となったときの公設秘書を務めた石井紘基さんが右翼系の男から刺殺されたことを受けての補欠選挙で、選挙に出馬したのは参議院からの鞍替えで小宮山洋子が出馬して当選しました。平成16年(2004年)に改選議席数が2から1になった岡山県選挙区で再選を果たしました。

参議院議長

平成19年(2007年)の第21回参議院議員通常選挙で民主党が大幅に議席を増やして躍進しました。そして与党の自民党は参院では過半数を割り込むことになりました。そのため8月に開催された臨時国会の場で全会一致で参議院議長に江田五月さんは選出されることになりました。野党から参議院議長が選出されるのは昭和30年(1955年)に自民党が結党して以来初めての出来事となる参議院議長への就任でした。

2007年8月30日に日本記者クラブで行った講演の場でのことですが、衆議院議決法案を参議院が修正か否決(または60日間未議決)をした場合でも、衆議院で再議決できるとなっている日本国憲法第59条第4項については、「例外中の例外の規定だ」と述べています。

平成22年(2010年)7月第22回参議院議員通常選挙の際に、参議院議長ながら民主党公認で岡山県選挙区から出馬して当選していますが、通常では、議長といった中立性を守るために衆参両院の正副議長は所属する会派から離脱するのが昭和46年(1971年)以降から慣例になっていますが、会派を離脱している議長が政党の公認を受けて参院選の選挙区に出馬したというのは、昭和46年(1971年)以降で初の出来事となりました。そして参院選挙後に、参議院議長を退任しています。

参議院議長を退任してから

平成23年(2011年)1月14日に菅再改造内閣で法務大臣に就任しました。この入閣は18年ぶりそして2度目の入閣となりました。法務大臣に就任したことは、三権の長を務めた国会の議長経験者の入閣は、第2次田中角榮改造内閣で法務大臣に就任した元衆議院議長の中村梅吉以来となる、38年ぶりの出来事になりました。

法務大臣に就任した1月14日の記者会見で死刑についての考えを述べています。「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰。国民世論や世界の大きな流れも考えて、政治家として判断すべきもの」「もともと人間はいつかは命を失う存在。そう急ぐことはないじゃないかという気はする」などと述べていますが、10日後の1月26日のインタビューで前回発言した「欠陥というとちょっと言葉がきつすぎるので訂正したい」と発言を撤回しています。そして撤回した上で「どんな命も大切にということが世の中になければ、温かい人間社会はできない。そういう意味で、取り返しのつかない死刑にどう向き合うかは本当に悩ましい」と述べています。そして法務大臣として在任中に、死刑執行の署名は一度もしていません。死刑執行について、おそらく東大時代に学んだ日本刑事法学の第一人者の影響があるのではないかとも思われます。団藤重光さんで東京大学を退官した後に、1974年から1983年まで最高裁判所の判事を務めた人物です。団藤さんは「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と発言してることもあるとおり、死刑廃止論者の代表的な人物でもあります。前は死刑に賛成の立場でしたが、ある事件を契機に死刑廃止論者になりました。この方の影響も少なからず江田さんにあるのでは?!とも思われます。

法務大臣として就任してまだ間もない1月18日に、民主党が第45回衆議院議員総選挙で掲げたマニフェストの見直しをすることを表明したことについて、「われわれが政権にいないときに、霞が関が民主党には十分な情報を提供しない中で、『心眼で見るとこうじゃないか』ということで作った部分がある」と発言して、「実現するには、いろんな隠れた障害がある。実際に政権を担当して、いろんなことが分かってきている。世の中の状況の変化もあるため、マニフェストについて一度きっちりと点検をして、より成熟させる部分があればそうしていく」と続けて発言しています。

民主党が選挙で掲げたマニフェストを見直しするとした背景として、政権交代する前に「天下りの斡旋を全面禁止して特別会計・独立行政法人・公益法人の仕事を徹底的に見直す」「国家公務員の総人件費2割削減」「ひもつき補助金廃止」「衆議院の比例代表定数を80削減」といった行政改革と予算の組み換えすることで、16.8兆円の新しい財源を生み出すとしていましたが、新しい財源を当て込んでいたものの、それが外れてしまったことで、選挙で掲げたマニフェストのままでは2012年度予算が組めなくなるという事情がありました。

そしてこの江田さんの「心眼マニフェスト発言」に対して、産経新聞ではこの発言を「釈明」として「官僚が手取り足取り教えてくれないからテキトーにつくったでは、政治主導の看板が泣く、御都合主義ここに極まれた」といった批判がされました。

法務大臣諮問機関「検察の在り方検討会議」は、大阪地検特捜部主任検事の証拠改ざん事件の反省に立って作られましたが、警察・検察官による被疑者取り調べの際に録音や録画で可視化するということについて「直ちに充分な検討を行う場を設けて、検討を開始するべき」との表現にとどめていましたが、平成23年(2011年)4月8日に地検特捜部による被疑者取り調べ時の可視化試行を、検事総長の笠間治雄さんに指示を出し、指示を受けた検事総長の笠間さんは、被疑者取調べの際の録音・録画の試行を実施しました。そして8月8日に可視化の範囲を裁判員裁判のすべての対象事件に拡大するようにとの指示をだしています。

2011年6月27日に松本龍環境大臣が内閣で東日本大震災復興対策担当大臣に専任大臣として就任したことをうけて、環境大臣の後任として法務大臣と兼務することになりましたが、9月に野田内閣が発足に伴って退任となりり、民主党の最高顧問に再び就任しました。

江田五月さんの主張と政策

  • 国立追悼施設を考える会の発起人
  • 国旗・国歌法に反対(1999年8月の参議院本会議)
  • 選択的夫婦別姓導入に賛成(多様な生き方を全て認めることが、21世紀の地域社会の有効な担い手となる考えから)
  • 「『共謀罪』に反対する超党派国会議員と市民の緊急院内集会」の呼びかけ人
  • 超党派議員「連盟立憲フォーラム」の顧問(憲法改正に反対)
  • 親中派(公益財団法人日中友好会館の会長も務めた)